こんにちは、礼奈です。

礼奈の日記です。読む価値がないひとりごとしか書きません。

死別の悲しみの渦に飲まれてしまった彼女へ

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

とあることで時間が止まってしまった方のプロフィールを見に行った。毎日グリーフにこころを潰されていく様子を見ていると、いつか本当に彼女が自殺するのではないかと思えてしまう。生きていてほしい。亡くなったひとのぶんまで。そう思うのは彼女にとってあまりにも重荷だろう。言葉がない。

彼女は直接「死にたい」とは書いていなかったが、きっとそう思っているか、もしくはそう思えないほどこころが傷むのだろう。あまりにも大きな痛みは、こころを麻痺させ冷凍保存させる。痛みを感じなくなるが、そのかわり重大な副作用として喜びも嬉しさも感じなくなる。笑えなくなる。泣けなくなる。

冷凍保存されたこころは、冷たくて、痛い。まるで死人みたいだ。大切なひとを喪うということは、自分を亡くすことだ。忙しいという字は心を亡くすと書くけれど、忙しくでもしていないと、ふとした弾みに、ちいさな段差に、自殺してしまうのだろう。自殺するひとは、こころが弱いのではない。

あまりに大きなものを喪って、もしくはちいさなものをたくさん喪ったひとたちだ。あとひとつのちいさな段差で躓いてしまうと、ひとは「これくらいの段差で大げさな」と笑うが、ひとにはこの高い壁が見えないのだろう。見えないからこそ、水面下で溺れ、気づいたときには息ができなくなってしまう。

もうすぐ、あの夏から7年が経つ。あの街から全てを奪った夏という季節になると、私も胸が痛くなる。どうして、生きていくことはこんなにも痛いのだろう。そして、こころが解凍されていくと、黒い水が出てくるのだ。そのときが、いちばん痛くて、苦しくて、そして熱くて火傷しそうになる。

抑圧されていた、被虐されていた、重く黒い感情が一気に溢れ出すときが来ることは、トラウマ持ちには避けられないことなのだろう。冬を過ぎ春になって自然に解凍するようなものならいいが、私の場合はとにかく沸騰していた。こころを構成するたんぱく質の成分が不可逆的反応を起こしてしまっていた。

同じことが、きっといつか彼女にも起きるのだろう。そのときには、ほんとうに、文字通り、死ぬことしか考えられなくなるのだ。重く暗いこころに光がさして、また生きようと思えるまでには、ひたすら茨の道が待っているのだ。その途中では少しのミスも許されない。とにかく、転ぶことは死を意味する。

グリーフケアに関わりたいとは漠然と思っているものの、苦しみを抱えて生きるその道での伴走者になれるようになったらと思っているものの、あまりのことに言葉を失ってしまう。彼女は思い出のアルバムの中を生きていて、こころは過去に置き去りにされている。その解離が、その別離が、とにかく痛い。

現在を生きていない彼女のこころと、現在を生きている彼女のからだの距離が離れれば離れるほど、痛くなる。あの夏を生きているこころは、だんだん徐脈になり、やがて心肺停止しまうのではないか。私は彼女のことがとても心配だ。こころを現在に持ってくるには、どうしたらよいのだろう。

マインドフルネスでは、こころを「いま、ここ」に持ってくることを目標としている。そうはいっても、それは全くもって簡単なことではない。その過程には溺れそうになる苦しみが伴う。精神科にお世話になることも、あのような過疎地域ではハードルが高い。その度にローマやリエーティまで行けというのは到底無理な話だろう。

グリーフケアに関わって、苦しんでいるひとが溺れているのは私には見ていられない。ことしこそ、誰かに浮き輪を渡せるひとになりたい。港まで泳ぐのはあくまでも彼女の仕事だ。ただ、港までの豪華客船は私には用意できなくても、浮き輪なら渡せるだろう。冷たく凍えてしまいそうな冬の海に、そっと浮き輪を投げる、そんな年にことしをしたい。